日本|大阪|古代の宗教戦争跡地!下の太子堂「大聖勝軍寺」

 神話の時代から天皇家に従い軍事一族として強い勢力を誇っていた物部家。その物部一族を率いて日本古来の神々を信仰し、大陸から伝わってくる仏教を禁止しようとする廃仏派(神道派)の物部守屋。

 そして大陸から伝わってくる文化・技術を積極的に取り入れながら新しい勢力として力をつけてきた蘇我家のトップとして、大陸から伝わってくる仏教を積極的に取り入れる崇仏派(仏教派)の蘇我馬子。

 この二大勢力は、それぞれの父親の時代(物部尾輿 vs 蘇我稲目)から激しく火花を散らして、古代ヤマト政権の中で権力闘争を繰り広げていました。

この物部VS蘇我の権力争いに、崇仏派の聖徳太子を含む天皇家の権力闘争も加わって、日本唯一とも言われる宗教戦争が勃発します。

古代日本最大の宗教戦争「丁未の乱」古戦場

 古い絵記録によると、大阪府八尾市にある太子堂「大聖勝軍寺」の道路を挟んで反対側あたりが戦場だったらしい。周辺には守屋塚や守屋池、神妙椋など歴史書に出てくるような場所が集まっています。

 大聖勝軍寺の入口には大きく聖徳太子古戦場と書かれた石碑が立っています。

古代ヤマト政権の最強軍事力だった物部一族を相手に、聖徳太子と蘇我馬子の連合軍は大苦戦。3回も撤退させられるなど絶体絶命のピンチに何度も追い詰められたそうです。そんななか崇仏派の聖徳太子は「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし(日本書紀」と祈り戦い、ついに勝利を収めた聖徳太子は、四天王寺や大聖勝軍寺を建立したと伝わっています。

大聖勝軍寺は、地元では太子堂と呼ばれています。令和の時代になっても飛鳥時代の人物名がついた地名が残っているってすごいことですよね。

寺の山号「神妙椋樹山」にもなっている神木の大椋(ムクノキ)。聖徳太子が絶体絶命のピンチに陥った時に木の大木が割れて、その中に太子は身を隠し生き延びることができたと伝わっています。その木で太子像を造り、自らの髪を植えて植髪太子(ご本尊)を創ったんだそうです。

こちらが植髪太子堂。植髪太子が安置されているそうです。小さなお堂で質素な雰囲気がいいですよね。地元の方々も続々と挨拶をしに来ていました。

太子堂にある如意輪観音。うつむき気味の遠慮深い観音様ですね。 左右にあるのが四天王の像でしょうか。

太子堂周辺の関係史跡

大聖勝軍寺目の前にある守屋池。 物部守屋を打ち取った秦河勝が守屋の首を洗ったと伝わる池の跡。今は水もありませんでした。

聖徳太子部下の迹見赤檮(とみのいちい)が矢を放ち、物部守屋を撃ったと言われています。その物部守屋を射た矢を埋めた場所と伝わる鏑矢塚(かぶらやづか)。

一番最初の写真にも書かれている守屋塚の位置に、明治時代にたてられた物部守屋の墓。周りの柱には古代の神道を守ろうとした物部守屋を英雄視する日本中の神社の名前が刻まれています。

Posted by tetsuchippy