日本|奈良|「蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿」4代にわたる古代の名門蘇我一族の足跡をだどる旅!

2019年9月9日

 古代日本最大の悪人一族でありながら凄腕の政治家だったと尊敬される「蘇我一族」。権力強奪をもくろむ悪人として恐れられながらも、大和朝廷の発展に尽力し、飛鳥文化を開花させた蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の4代にわたる悪役ヒーローたちの足跡をたどってみました。

まず蘇我氏と所縁のある神様にご挨拶!

まずはじめに訪問したのが、通称「入鹿さん」とも呼ばれる宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。 創建は不詳ながらも、祀られている曾我都比古神 、曾我都比売神の2神は、その名前から蘇我氏に関係のある神と言われているそうです。

推古天皇の時代、蘇我馬子が蘇我氏の先祖とされる武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとも、持統天皇が蘇我本宗家の滅亡を憐れみ、蘇我倉山田石川麻呂の子孫に創建させたとも伝わっています。

  • 住所: 奈良県橿原市曽我町1196
  • 交通:駐車場あり。周囲の道は細いので注意

蘇我入鹿を御祭神とする入鹿神社

蘇我入鹿木造坐像を神体とする入鹿神社がある小綱町は、蘇我氏と縁が深い土地柄と言われていて、いまでも蘇我氏を尊敬し、敬う文化が残っているそうです。例えば、鶏の鳴き声を合図に蘇我入鹿が斬られたと伝わることから鶏を飼わないとか、中臣鎌足を祀る多武峰にお参りすると腹痛を起こすとか、中臣鎌足の母の故郷である明日香村小原の人とは縁組しないとか・・・。

この神社は、 乙巳の変で蘇我入鹿が首をはねられたことから、首から上の病にご利益があると言われているそうですよ。朝敵のレッテルが張られて悪人扱いされていても、地元ではその高い能力と実績がしっかりと伝わっているんですね。

  • 住所: 奈良県橿原市小綱町335
  • 交通:わずかに駐車場がありました

蘇我氏と縁のある神社に挨拶をしてから、いざ明日香村へ向かいます。

都塚古墳で眠ると言われる蘇我稲目

上の写真は、有名な石舞台古墳を見下ろす高台にある都塚古墳。こじんまりと見えますが大王クラスの規模の一辺40mにもなる巨大な方墳で、珍しい階段ピラミッド型と言われています。階段ピラミッド型古墳は高句麗や百済で多く見られるため、渡来人とつながりが強い大王並みの権力者と想定されるそうです。そして蘇我氏の影響が強いエリアであることから「蘇我稲目の墓」というのが最有力な説になってます。

金鳥塚とも呼ばれているこの古墳は、すでに盗掘されていて、副葬品はほとんど出てこなかったそうですが、わずかにいくつか鉄製の副葬品が見つかったそうです。

この古墳は、外から棺の入っていている部屋も見ることができました。中には石棺が見えます。もし、1500年も昔の大権力者「蘇我稲目」がこの石棺の中に眠っていたのだとすれば、ものすごいものを見てることになりますよね・・・・。この古墳からも想像ができますが、やはり「蘇我氏は渡来人と強いつながりを持っている」のでしょうか。

  • 住所: 奈良県高市郡明日香村大字阪田小字ミヤコ938
  • 6世紀後半の方墳

伝来したばかりの仏教を保護した蘇我稲目

西暦538年。百済国の聖明王から第29代天皇の欽明天皇へ金銅の阿弥陀如来像等、さまざまな仏具が贈られてきました。これが初めての日本への仏教伝来と考えられています。欽明天皇は百済から伝わった阿弥陀如来像を蘇我稲目に与え、蘇我稲目は向原の邸宅を清めて日本初の仏教寺院「向原寺」を建てたと言われています。(上写真は現在の向原寺)

日本古来の八百万の神々を大切にする物部氏グループに対し、仏教文化とともに中国や朝鮮からやってきた渡来人の技術も取り入れようとする蘇我稲目は対立することになります。向原寺建立後、疫病が蔓延し、物部氏は仏教が原因だと追究します。西暦570年、蘇我稲目が亡くなったのち、 向原寺は廃仏派によって焼き払われてしまいます。

この向原寺焼き討ちは、善光寺の伝説に繋がります。焼き討ちで伽藍や本堂は全焼したものの、阿弥陀如来像は燃えずに残り「難波の堀江」に投げ捨てられたと言われています。難波の堀江は向原寺のすぐ脇にあります。この事件から数十年後の推古天皇の時代、信濃国から飛鳥に来ていた本田善光という人物がこの阿弥陀仏を見つけだし、阿弥陀仏を信濃に持ち帰ってお堂を建てたのが有名な「善光寺」なんだそうです。

難波の堀江の脇には、難波の堀江に沈んでいた仏像を洗ったと言われるすすぎの瀧もあります。西暦600年頃の出来事を実際の現場を見ながら辿っていけるってすごく感動します。

向原寺が焼き払われた後、どうやら蘇我馬子が大きな宮殿を創っていたようです。豊浦の宮と呼ばれるこの宮殿は、のちに推古天皇が即位した場所になります。向原寺の裏手には、豊浦宮の遺構がわずかに残っています。

次は聖徳太子とともに推古天皇を支えた蘇我馬子

欽明天皇が崩御したあと、廃仏派の敏達天皇が跡を継ぎます。廃仏派の勢いが強い中、欽明天皇の別宮だった「橘の宮」の厩戸で聖徳太子(厩戸王)が生まれたと言われています。

上の写真は、橘の宮の跡に建築された橘寺。

敏達天皇の後は、用明天皇(聖徳太子の父)が跡を継ぎますがすぐに亡くなり、後継者問題が発生。後継者をめぐって、廃仏派物部氏と崇仏派蘇我氏が本格的に戦争状態にはいります。結果、厩戸王(聖徳太子)や額田部皇女(後の推古天皇)、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)が味方についた蘇我氏側が勝利。 泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位。ライバルの物部氏を滅ぼした蘇我氏は絶頂期に達します。

蘇我氏絶頂のこのタイミングで遂に蘇我馬子が、蘇我一族が悪人に認定されてしまう一つ目の事件を起こしてしまいます。「崇峻天皇暗殺事件」!!

我が物顔に権力をふるう蘇我馬子を憎むようになった崇峻天皇を、ついに蘇我馬子が部下に命じて暗殺してしまうのでした・・・(後にも先にも、天皇が暗殺されたのはこの1回のみだそうです)

日本初の女帝「推古天皇」が豊浦宮で即位

先ほども一度出てきた向原寺裏にある豊浦宮跡。もともと蘇我稲目の邸宅があったこの場所(向原寺跡)に豊浦宮が作られ、この豊浦宮で蘇我氏の推薦を受ける「推古天皇」が即位します。日本初の女性天皇です。

蘇我馬子は、この豊浦宮で聖徳太子、推古天皇とともに、様々な国富政策をスタートします。

聖徳太子の改革の舞台「小墾田宮(おはりだのみや)」

西暦593年に豊浦宮でスタートした推古朝。603年に豊浦の宮より北に数キロメートル位の位置にある小墾田宮(おはりだのみや)に遷都します。現在、 小墾田の跡と考えられている場所は古宮遺跡、もしくは雷丘(いかずちのおか)周辺ではないかと考えられているそうです。

古宮遺跡には、いまとなってはわずかな石積みの遺跡「古宮土壇」のみが残っているだけ。でもその土壇が何ともワビサビを感じさせてくれます。このあたりには蘇我氏の邸宅があったのではないかと言われています。

こちらが雷丘。この近くで発見された井戸から小墾田宮の存在を示す遺物が発見されたんだそうです。いまでは本宮遺跡は蘇我氏邸宅跡。そしてこの雷丘の周辺に小墾田宮があったのではないかと考えられるようになっているそうです。

上写真は飛鳥寺にある聖徳太子像です。様々な伝説を持つ聖徳太子は、この小墾田宮で蘇我馬子や推古天皇に支えられて次々と改革を進めていったんだそうですよ。

  • 十七条憲法
  • 冠位十二階の制定
  • 遣隋使の派遣
  • 法隆寺の建立

こんな有名な歴史的出来事が起きた宮殿が、今はのどかな田園風景になっているんですね・・・。なんかいろんな感情がわいてきます。

蘇我馬子によって飛鳥文化が最高潮に

ここは蘇我馬子が建立した「飛鳥寺」。蘇我馬子によって建てられた日本最古の「本格的な」仏教寺院。当時世界最高峰の木造建築物と言われています。瓦の作り方や、木造加工、大仏の作り方など、高い技術を持った渡来人が活躍したと言われてて、隋からの使者などは優れた寺院群を見て驚いたと言われています。

 飛鳥寺に安置されている「飛鳥大仏」。日本最古の大仏とも言われています。この仏像を創る技術等も仏教共に存在していたようです。ただ宗教を取り入れただけではなく、仏教関係者の高い知識と技術を手に入れるため仏教を取り入れた蘇我氏。仏教伝来とともに、経典を読むため「文字」が伝わり、寺院や仏具を作るための木工技術、鋳造の技術、鉄器の技術等が一緒に伝わってきたそうです。当時の仏教導入は、技術導入の意味も強かったそうです。

江戸時代から有名だった石舞台古墳

日本最大の方墳跡なんだそうで、盛り土が取り去られて横穴式石室がむき出しの独特な外観はすごいインパクトがあります。いまだになぜ盛り土が無いのかは不明ですが、この巨大な石室を造ることができるのは「蘇我馬子」だろうと言われています。

この巨大な古墳は、過去にすでに盗掘されてしまっていて、石棺でさえ破片のみしか見つかっていないそうです。

非常に巨大な石室内。人間が何人も入れるくらいの空間があります。地元のガイドさんが熱心に説明してくれています。この石舞台古墳は江戸時代の書物

にも観光地の一つとして出てくるそうです。その形が舞台のようだからとか、キツネが美女に化けて踊っていたから石舞台という名前がついたとか言われているそうです。

飛鳥文化の全盛を造った「蘇我馬子+聖徳太子+推古天皇」トリオ。飛鳥文化全盛期を支えた3人トリオも、622年に聖徳太子、624年に蘇我馬子、そして推古天皇が626年に亡くなります。この3傑が亡くなった後は蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子を中心に動いていきます。

宮殿を見下ろす甘樫丘に要塞を築いた蘇我蝦夷

推古天皇の後を継いだ舒明天皇は飛鳥岡本宮(伝飛鳥板蓋宮跡)へ遷ります。 今は上の写真のように柱が立っていた跡を示す木が刺さっていますが、本当の遺跡は地中に埋まっています。

  飛鳥岡本宮(伝飛鳥板蓋宮跡) は甘樫丘の東側麓に位置していて、同じ場所から、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮跡なども見つかっています。この遺跡の奥に見える小高い丘が甘樫丘。

蘇我蝦夷・入鹿親子はこの甘樫丘に軍事的な柵などを備えた巨大な要塞を築きます。

上写真は甘樫丘の上から眺めた飛鳥岡本宮 (伝飛鳥板蓋宮跡) の方向です。一説によると、天皇の宮殿を見下ろす位置に蘇我氏の要塞を築くことで、天皇家に軍事的圧力を加えていたとも言われていますが、外敵から天皇の宮殿を守るための最前線基地として築かれたとも言われています。

はたして、善悪どちらとも言い難いですが、この丘は飛鳥エリア全体を見下ろすことができる軍事的には絶好の場所でした。

 舒明天皇の跡、舒明天皇妃が第35代天皇の皇極天皇として即位します。 このころ蘇我蝦夷と入鹿はますます勢力を強くし、横暴が目立ち始めます。そして天皇家にとって有り得ない悪事2つめ「山背大兄王暗殺事件」が起こります。蘇我入鹿が政敵でありライバルだった山背大兄王(聖徳太子の息子)を殺害したのでした。

 上の写真は飛鳥寺のすぐ横にある蘇我入鹿の首塚。最近、この首塚の西側、甘樫丘との間に「槻の木の広場」の遺構が見つかったんだそうです。 槻の木の広場は、蘇我入鹿の横暴に頭を痛める中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会った場所と伝えられています。

 上の写真は多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)。645年5月、中大兄皇子と中臣鎌足は多武峰の山奥で大化の改新(乙巳の変 )に向けての相談をしました。そのことから、のちに創建された談山神社の名前の由来です。この神社は鎌足公を祀っていて、十三重の塔で有名な場所です。

皇極2年、 飛鳥板蓋宮で有名な乙巳の変が発生します。あの小学校でも必ず勉強する乙巳の変(大化の改新)の舞台が目の前に・・・・・・。ここで蘇我入鹿が中大兄皇子に首をはねられます。入鹿の死を知った蘇我蝦夷も、甘樫の丘で自宅に火を放ち自害します。この写真を見ると、入鹿が首をはねられた飛鳥板蓋宮と、甘樫丘が非常に近いことが分かります・・・。歴史を目で見ているような気になってきます・・・。

日本各地に蘇我入鹿伝説が広がっています。

はねられた入鹿の首が飛んできたと言われる場所が各地にあります。一つは飛鳥寺すぐ横の「入鹿の首塚」。宿敵である中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場である「槻の木の広場」のすぐ近くであることに、何か考えさせられるものがありますよね。

気都倭既神社(きつわきじんじゃ)の茂古森。 蘇我入鹿の首に追いかけられた中臣鎌足がここまで逃げてきて「もうこないだろう」と言ったことから「茂古森(もうこのもり)」と呼ばれるようになったんだとか。談山神社のすぐ近くです。

他には宗我坐宗我都比古神社の周辺に首落ち橋という地名があって、そこがそうだとか、三重県などにも入鹿の首が飛んできた伝説が残っているそうです。ここまでうわさが広がるということは、よっぽど日本を揺るがした事件、インパクトのある人物だったんでしょうね。

蘇我蝦夷と入鹿は甘樫丘の南方に眠っている?

現在、明日香養護学校が立っている場所に小山田古墳が隠れています。今は建物の下で見ることはできませんが、一辺70mをこえる超巨大方墳だったことが分かっているそうです。

その小山田古墳のすぐ脇に菖蒲池古墳があります。こちらの古墳は石室も石棺も残っていて、上の扉の中を覗き込むと2つの石棺が見えます。

菖蒲池古墳には、二つの石棺が入っていました。これらの石棺の模様などは、他に類を見ない素晴らしいものなんだそうで、小山田古墳とともに大王クラスの古墳と考えられているそうです。

甘樫丘の南側は蘇我氏の縄張りであること、その豪勢さ、しかしあまり大切にされていない雰囲気等から、悪人ヒーローの蘇我蝦夷・入鹿の古墳ではないかと考えている人もいるそうです。日本書紀では蝦夷が生前に双墓を築いたと書いてあるそうです。蝦夷用の大陵(小山田古墳)、入鹿の為の小陵(菖蒲池古墳)が並ぶように位置していることも、その説の根拠となるそうです。

この二つの石棺に蝦夷と入鹿が入っていたのかもしれない・・・・・。

様々な伝説を残す悪役ヒーローの「蘇我一族」

いかがでしたでしょうか。蘇我稲目から蘇我入鹿まで、蘇我本宗家4代の足跡をたどる旅。1,600年も前の時代であるにもかかわらず、様々な痕跡を残しています。また、あんなに勉強した「飛鳥時代」のほとんどの出来事が、南北5km程度の狭い範囲で起きていたことを知り、すごい刺激になりました。

今回のルートを下に記します

  • 宗我坐宗我都比古神社
  • 入鹿神社
  • 小墾田宮(古宮遺跡・雷丘)
  • 向原寺(豊浦宮・豊浦寺跡・難波の堀江・すすぎの瀧)
  • 甘樫丘
  • 飛鳥寺(飛鳥大仏・入鹿の首塚・ 槻の木の広場跡)
  • 伝飛鳥板蓋宮跡(飛鳥岡本宮)
  • 小山田古墳
  • 菖蒲池古墳
  • 都塚古墳
  • 石舞台古墳
  • 気都倭既神社(茂古森)
  • 談山神社