日本|滋賀|渡来人の謎を追って近江の歴史を調べる旅

2019年6月2日

 縄文時代、弥生時代、古墳時代、そして飛鳥時代・・・。日本の古代を勉強したくなり、ふと調べていると出てきたキーワードが「渡来人」。昔教科書で、「稲作、鉄器などが渡来人によって日本へ伝えられた」と書かれていたことを思い出しました。

 中国で、劉備や曹操が激戦を繰り広げていた三国志の時代、日本はまだ卑弥呼が呪術で国を治めていたと言われています。古代の世界最先端だった大陸(中国)と日本では、天と地ほどの大きな技術、文化の差があったことが想像できます。
 きっと当時の倭人(日本人)からすると、大陸からやってきた渡来人の技術は魔法に見えたんじゃないでしょうか。

近江の渡来人を知るうえで重要な鏡神社

 この鏡神社の祭神は天日槍尊(アメノヒボコ、天日槍、天之日矛とも表記)。第11代天皇の垂仁天皇の時代(3世紀後半~4世紀前半ごろ)にやってきた新羅国の王子といわれている渡来人です。アメノヒボコが実在した人物なのかどうかは不明ですが、渡来系の方たちがこの蒲生周辺に住んでいたことは間違いないそうで、この名前の通り鏡作り技術を持った渡来人が多く住んでいた場所なんだそうです。

 鏡だけでなく、須恵器作りなど窯跡などもあるそうで、高い技術を持った渡来集団がこの周辺に多く住んでいたそうです。

天智天皇、天武天皇の時代、鏡神社の神官をしていた鏡王の娘が、あの有名な「額田王(ぬかたのおおきみ)」や「鏡王女(鏡女王)」と言われています(諸説あるそうです)。

 非常に複雑な人間関係ですが、鏡王女は天智天皇の妃でしたが、後に藤原鎌足の正室となり、あの有名な藤原不比等を生んだと言われています。

 額田王は万葉集などでも出てくる有名な歌人で、絶世の美女と言われている人ですね。もともと天武天皇(大海人皇子)の妃として十市皇女を生みますが、後に天智天皇の妃となり、さらに娘の十市皇女は天智天皇の息子の大友皇子の妃となります。最後には元夫の天武天皇(大海人皇子)と娘の夫大友皇子(弘文天皇) が壬申の乱で戦うことになります。古代日本最大の内乱に深い関わりがあります。

鏡王が葬られている眞照寺

 鏡神社のすぐ近くにある眞照寺。ここに鏡王が葬られているそうです。鏡王がどのような人なのかは殆ど分かっていないそうですが、鏡作り技術にたけた土地、技術の集団とかかわりがある王族?なんて言われているんだそうです。

 壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)側について参加し戦死したと言われています。 孫にあたる十市皇女が大友皇子の妃だったからでしょうか。大友皇子や天智天皇が大津に都をおいたのは、このエリアの渡来人たちの高い技術力を重要視していたことが理由の一つといわれているそうです。きっと深い関係があったのでしょうね。

百済文化を伝える石塔寺

天智天皇は百済国救援のために参加した白村江の戦いで、唐・新羅国連合軍に大敗。百済国が正式に滅亡します。 この時、大規模な百済からの移民が日本にやってきたようで、資料ではこの滋賀県蒲生に700人の渡来人が住み着いたと言われているそうです。

石塔寺という名の通り、境内の中には石塔がたくさんあります。

石塔寺の本殿です。このお寺は聖徳太子創建といわれているそうで、聖徳太子が近江に48の寺院を建設した48番目の結願寺なんだそうです。ただ、織田信長の時代に焼き払われたため、江戸時代に再興されたものになります。

本殿横のこの長い階段を上ります。入り口には竹の杖もおいてましたので、必要であれば借りてください!

階段の横にも石塔がずらり。なんかすごいいい雰囲気ですね。息切れしながら必死で上り続けます。

 頂上に到着。到着した瞬間「うわー」って言ってしまいました。写真を必死でとりましたが、写真より実物の方が明らかに迫力がありました。

一番大きな塔が阿育王塔と呼ばれる石造り三重塔。インドのアショカ王が世界中に配布した仏舎利塔と言われているそうですが、真偽のほどは・・・。実際には奈良時代に作られたものと言われていますが、その姿はまさに百済。

ほかの寺院ではあまり見ることができない独特な風貌の石造三重塔は百済国の文化が強く出ています。あの有名な司馬遼太郎さんは、この塔を見て「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。」と言ったそうです。

石塔は数万基あるそうで、その迫力もすごい・・・。今回はお邪魔しませんでしたが、この近くには湖東三山の一つで有名な「百済寺(ひゃくさいじ)」もありますし、百済からやってきた渡来人たちの文化が強く根付いている場所だと分かりました。

元百済貴族、鬼室集斯の墓がある鬼室神社

滋賀県蒲生郡にある鬼室神社(きしつじんじゃ)。百済復興運動の中心人物「鬼室福信」の近親者である鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓がある神社です。

鬼室集斯も白村江の戦いの後、滋賀県蒲生に亡命してきた700人の渡来人の一人と言われています。日本移住後には、大津宮などで天智天皇に仕え活躍したと伝えられています。

竜王山の東側に鎮座する苗村神社

苗村神社の主神は「那牟羅彦神(なむらひこのかみ)」。蒲生野に工芸技術や産業を伝え広めた神様なんだそうです。なんとも渡来人をイメージさせる神様。大化の改新の前からあったと言われる歴史のある神社で、境内には東苗村古墳群とよばれる6世紀ごろの古墳が見つかっています。

神社の裏側に広がる敷地を見てきましたが、結構広い。なんとなくですが、この丸く盛り上がってる場所は円墳なんじゃないでしょうか。ここも位置や、その祀っている神様の特徴から、渡来系の方たちの古墳ではないかと言われているそうです。

いかがでしたか?渡来人の謎を追って近江の歴史を調べる旅。

きっと今よりも日本列島と朝鮮半島が近かった時代。今よりも気軽に多くの人たちが大陸から日本列島に移住してきたようです。大陸や朝鮮半島の高い技術力を持って日本に移り住んだ技術を持った「渡来人」は早期に日本に移り住んでいた人たちからは「神様」として扱われながら敬われ、各地に強い影響を持つことになったんでしょうか。

 なかでも琵琶湖や川の影響で稲作に適していた近江(滋賀県)には、渡来人が多く移り住み、まさに(先住日本人の)縄文時代から(稲作が盛んになった)弥生時代に移行が起きたのではないでしょうか。

 古代は、近代よりも日本と朝鮮半島の文化は密接だったんでしょうね。それがいつの間にか、国の境がはっきりできてしまって遠くなったのかな。非常に興味深い歴史勉強でした。