日本|滋賀から三重|ヤマトタケルの最後を辿る旅

「吾が足は三重の勾の如くして、甚疲れたり」

「三重」の由来を知りたくて探していたところ、古事記の中に出てくるヤマトタケル伝説に出てくる上の言葉から三重と呼ばれるようになったと知りました。

これは、ヤマトタケルが伊吹山の神い敗れ、ボロボロになりながら大和へ向かっている途中の言葉で「私の足は三重に曲がったまがり餅のようで、とても疲れてしまった」とか、「足が三重に折れ曲がってしまったように疲れ果てた」という意味なんだそうです。

ヤマトタケルはこの後に最後を迎えることになり、まさにヤマトタケル伝説の最終章。今回は、その最終章の足跡をたどってみようと思いついた旅です。

伊吹山の神と戦ったヤマトタケル

 古代日本で最も人気がある英雄の一人「ヤマトタケル(日本武尊)」。熊襲討伐、出雲武尊との戦い、そして蝦夷東征などの、激闘を繰り広げ、大和政権を全国に広めた英雄です。

 その東征が終わり、大和に戻る途中に伊吹山の神と戦うことになります。伊吹山の神は、古事記では巨大な白猪、日本書紀の中では大蛇として描かれているそうです。

 伊吹山の神との戦いに敗れたヤマトタケルは、ふもとの湧水で意識を取り戻し、熱を冷まして元気をわずかながらに取り戻したんだそうです。

居醒の清水!伊吹山の神の毒気を醒ました清水

 上写真は伊吹山ゴンドラ乗り場すぐ近くにあるケカチの水。伊吹山の周辺にはたくさんのきれいな湧き水があって、このケカチの水もその一つ。一説ではヤマトタケルが熱を冷ました命の水とも伝えられているそうです。

情報「 ケカチの水」
住所:滋賀県米原市上野1488

続いてきたのは宿場町「醒井宿」。中山道61番目の宿場町です。今もそのきれいな街並みが残っていました。醒ヶ井、醒井という地名はヤマトタケルを覚醒させた水が由来なんだそうですよ。

これは醒井宿の問屋場。まだこのような実物が残っているんだからすごいですよね。そしてこの宿場町の素晴らしさが、街中を流れる地蔵川。

湧水で生まれた小川で、水がとにかくきれいで冷たくて。宿場町の中をめぐらされていて生活の中でも有効に利用されています。朝早く、この川の水を汲んで家の前の花壇に水を撒いていました。いい生活に見えるなぁ。

ここが「居醒の清水」。水がわき出る湧水スポットで、地蔵川の源流。この「居醒の清水」もヤマトタケルが熱病で倒れた時に毒を洗い流した霊水であると伝わっています。

湧水横には立派な日本武尊像が建てられていました。

地蔵川の中にある「腰懸石(腰掛石)」。熱に苦しむヤマトタケルがここに腰かけて体を冷やしたんだそうです。ここに座って、足を水の中に入れて冷やしていたのかな。

右側は「鞍懸石」。ヤマトタケルが馬の鞍をここに置いたといわれている石です。

こんな小さな石ですが、古事記にも出てくるあのヤマトタケル伝説の一つに繋がっていくことを思うと、2000年なんてあっという間、何代にもわたる伝承なんて瞬間なのかなぁと思ってきます。

これは梅花藻。きれいな湧き水などにのみ生息するキンポウゲ科の水中花。5月ごろから8月ごろまで開花します。

2019年5月26日に訪問した際には、全体の1割くらいで開花していました。小さい白い花。かわいいですよね。

この伊吹山の南方部分には、このような清水、湧水が多くあり、伝説の中ではこの地域の綺麗な水でヤマトタケルが元気を取り戻したとなっています。ここで元気を取り戻したヤマトタケルは再びヤマトをめざし南下します。

 どうやらこの時代は、まっすぐ琵琶湖沿い(いわゆる東名高速道路コース)ではなく、三重の鈴鹿、亀山側を通過するコース(いわゆる新名神高速道路コース)からヤマトを目指したんですね。

当芸野「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった

米原エリアから養老エリアまでたどり着いたヤマトタケルは、この大菩提寺あたりについたときに疲れ切り「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった 」とおっしゃったそうです。

意味は「足が疲れて、もうガクガクになった」ということです。

養老の滝ちかくにある大菩提寺。静かですが非常にきれいに整えられた落ち着いたお寺。この地は今では「たぎたぎしい」から当芸野(たぎの)という地名で呼ばれているそうです。

この境内の片隅に「日本武尊史跡 当芸野」の碑があります。米原から約25㎞の距離。ボロボロの体で、湿地と山が多いこのエリアを必死で歩いていたんですね。日本には、きっと知らず知らずに、古事記や日本書紀のような歴史書から地名がたくさん生まれているんでしょうね。

杖衝坂(杖突坂:つえつきざか )が岐阜県にもあった。

 杖突坂(杖衝坂)。これは海津市南濃町の杖突坂です。行基寺参道入り口近くのため池の横にあります。杖突坂は三重県の采女のあたりとも言われていて、そちらにも杖突坂という地名が残っているので、どちらが本当なのかは知りません。

 急な坂だったので、剣を杖代わりに突いて上ったといわれる坂で、杖突坂と呼ばれているそうです。 三重采女の杖突坂にも後程向かいます。

尾津前の草薙神社

東征に向かう途中、三重県桑名市の尾津前の一本松の根元で食事をし、その際になんと刀を松にかけて忘れてしまったんだそうです。今度は伊吹山でひどい目にあって、杖突坂を越え何とか歩いて尾津前にたどり着きました。すると、刀が盗まれることもなく松にかけられて残っていたんだそうです・・。

 生きるか死ぬかの苦しい中、ヤマトタケルは刀を見てどれほどうれしかったんだろうなぁと想像してしまいます。

 一本松の場所は、今は草薙神社として静かに時を過ごしていました。

そして境内の横には、そのヤマトタケルが刀を忘れた松の木が残されていました。今はもう枯れてしまったんですね。

この尾津前は、もともと尾張へ向かう船着き場だったんだそうです。(今は海も川も近くになく、港を表す「津」という地名だけが残っていますが。)

三重県采女の杖衝坂

 先ほど紹介した岐阜県海津市とは違う、三重県采女の杖突坂です。古事記内の物語の順序では、当芸野→杖衝坂→尾津前となっているそうですが、実際に巡ってみると、この三重県側の杖衝坂では、当芸野→杖衝坂→尾津前の順だと相当な遠回りになるのでちょっと不思議に思うポイントです。

古事記の中ではこの采女のあたりにたどり着いたヤマトタケルが、あの三重の語源となる言葉「吾が足は三重の勾がりの如くして、はなはだ疲れたり」とおっしゃったそうです。

のちの時代に松尾芭蕉もこの杖突坂で落馬してその俳句を読んでいるそうな。

杖突坂の上には血塚社と呼ばれるおどろおどろしい名前の神社があります。坂を何とか上りきったヤマトタケルは、自分から血がしたたり落ちているのを知り、ここで止血したと言われているそうです。

遂にヤマトタケル終焉の地「能褒野」

 日本古代、最大の英雄ヤマトタケルは、伊吹山からヤマト(現奈良県)を目指して向かう途中、遂にこの能褒野(のぼの)の地で亡くなり墓が築かれたとなっています。上の写真は、現在、宮内庁がヤマトタケルの墓として認定している「能褒野墓(能褒野王塚古墳)」。田んぼに囲まれた巨大な前方後円墳で、このエリア最大の規模を誇ります。

敷地内はに能褒野神社がありきれいに整備されていました。ヤマトタケルの墓と認められるまでには丁字塚と呼ばれていたりしたそうです。

公園内を散策します。

古墳内はきれいに整備されていました。

古墳中心への入り口です。

能褒野墓です。今宮内庁が管理している歴代の天皇家の陵墓と同じようになっていますね。

宮内庁が正式に、景行天皇王子日本武尊の墓と認めていますが、明治12年からここがヤマトタケルの墓と認定されたんだそうです。宮内庁の管理になると、そこからはなかなか調査ができません。伝承の中では盗掘抗が既に見つかっているそうな。

本居宣長が有力視した「白鳥塚古墳」

 宮内庁が能褒野の丁子塚を正式にヤマトタケルの墓と認定して能褒野墓としたのが明治12年。その前の江戸時代には、この白鳥塚古墳がヤマトタケルの墓として最有力視されていました。その中心人物が本居宣長らの国学者。上の写真はホタテガイ型古墳の白鳥塚古墳

古墳の一部は加佐登神社の敷地になっています。この加佐登神社の雰囲気もまた素晴らしい。

信仰を強く集めているんでしょうね。非常にきれいに整備されていました。この加佐登神社、もともとは笠殿(かさどの)と呼ばれていたらしい。

日本武尊を主祭神として祭っていて、ヤマトタケルが能褒野の地にたどり着き、最後まで使っていた笠と杖を祀ってある神社なんだそうです。

神社からは古墳へ伸びる山道が続いています。結構細い山道ですので、ハブや蜂などにはご注意ください。非常に薄暗くなっていて、ちょっと一人で歩くのは怖かった!

 見間違いかもしれませんが、一羽巨大なフクロウが飛び立つのが見えました。気のせいかな?野生のフクロウなんているのかな?

白鳥塚古墳の入り口です。神社から細い道を歩いて10分位で到着。

ここが円墳部分。中心です。ここの円墳の大きさを考えると、本当にここがヤマトタケルの墓でも不思議じゃないなぁと思います。すごい権力があったはずです。

その他の有力なヤマトタケルのお墓候補

上の写真は武備古墳(たけびづかこふん)。いまは長瀬神社となっていて、その境内裏に大きな円墳が残っています。

こちらの長瀬神社もきれいに整備されています。武備塚は、もともとこの地、亀山藩の藩主:板倉勝澄がヤマトタケルの墓と指定した場所。古墳の大きさなどを考えて、当時は最大規模とみられていたことは間違いありません。

この本堂の裏手に古墳がありました。

こちらの看板にある通り、宮内庁はヤマトタケル陵墓は別だと言ってるけど諸説あると書いてます。宮内庁管理下になってしまうと、何も調査ができないので、本当にどれが本当なのかわかりませんしね。いろんな古代のロマンがあっていいと思います。

この武備塚古墳は円墳のようですね。このこんもりとした山。よく古墳と気が付きましたね。

上の写真は王塚古墳。非常に巨大な前方後円墳で、ここがヤマトタケルの墓だと提唱する説もあるそうです。

三重県のこの四日市や亀山あたりは、大和までも近く、伊勢も近く、その昔はたくさんの権力者がいたんでしょうね。たくさんの巨大な古墳が見つかっていますので、どれも見事なスケールです。

最後に双児塚古墳。ここも伊勢亀山藩の藩主 石川成之(いしかわなりゆき )がヤマトタケルの墓と考えていた場所。たくさんあるヤマトタケルの墓。それだけヤマトタケルの人気がすごいことが分かります。

能褒野の地でなくなり、能褒野王塚古墳が作られ、しかしヤマトタケルは白鳥となり、大和の地に飛び立ったと言われています。

白鳥が最初に舞い降りた琴弾原の白鳥陵(奈良県御所市)、次に白鳥が舞い降りた羽曳野の白鳥陵と合わせて、白鳥三陵なんて呼ばれているそうです。羽曳野の白鳥陵を飛び立った後は天高く飛び去ったと言われているそうです。

羽曳野という地名も「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った 」という古事記の文章が語源なんだとか。

日本中にいろんな伝説と地名を残したヤマトタケル。英雄としてどの時代の人にも高い人気を誇ったからこそ生まれた様々な伝承。

滋賀県の米原市から、岐阜県養老を経由して三重県四日市まで続く100㎞。ヤマトタケルの最後を辿る旅でした!