日本|滋賀|巨大な戦国武将の夢の跡「安土城跡」

2018年6月4日

戦国の世、戦国最強にして最恐の武将、織田信長が自身の象徴として築城した「安土城」。従来の城と全く異なる外観のインパクトもあり、信長の凄さを見せつけていたと言います。

たったの6年で焼失した栄華の象徴

本能寺の変(1582年6月2日)の13日後、何者かにより火がつけられ天主や本丸が燃やされてしまったそうです。1576年の築城からたった6年後の事・・・。今日はその安土城跡を見学に行ってきました。

 

今も発掘調査が進んでいる安土城跡

今も発掘調査が進む安土城跡。噂によると滋賀県も資金的に余裕がなくて、調査は難航中だそうな。それなら入場有料もうなづける。うん仕方ない!支払いましょう。

 

まず驚くのは、いきなりまっすぐ伸びる階段。こんなにまっすぐ天主や本丸に向かって階段が続いていれば防御に向いていない気がします。この安土城がただの防御の役割だけでなかったんだと分かります。

石階段の両側には、織田軍団の有名な重臣達の屋敷がズラリ。まずは前田利家公の屋敷跡。

 

その向いには豊臣秀吉(羽柴秀吉)の邸宅。

 

石台跡から邸宅の大きさが分かります。石垣を登り始めて、いきなり階段左右に前田利家と豊臣秀吉の邸宅が構えてあるんだから、驚き。戦国時代の英雄そろい踏みです!

 

前田利家公の邸宅上には摠見寺の仮本堂があります。実はこの摠見寺は、徳川家康邸宅跡地に建てられています。徳川家康って、信長の盟友のイメージがあったので、もっと天主近くに邸宅があるかと思ってました。

この摠見寺。安土城内に建てられた寺院。宗教的な意味だけでなく、当時の権力的な、政治的な、意味があると想像できるお寺です。

だって、信長と言えば仏教を弾圧をしていたイメージ。このお城の石垣にも地蔵さんが使われてるし・・・・・。この神も仏も信じない!という姿勢こそ信長な気がしてました。

 

武井夕庵邸宅の跡。

あまり有名じゃない人ですが、信長の文章作成係、兼、外交官だったそうで、信長の信頼が厚かったそうな。だから豊臣秀吉や前田利家、徳川家康よりも天主に近い場所に邸宅が設けられていました。

 

続いて、信長の嫡男の織田信忠の邸宅跡。

 

続いて織田信澄(津田信澄)と森蘭丸の邸宅跡。

もう、本当に天主閣のすぐ下です。

この織田信澄は、信長に反乱を起こした弟「織田信行」の長男。
そのような微妙な立場であったのにこの場所に邸宅を構えていたなんて、なんか不思議です。信長は、血筋やら家柄などは全く気にしない人なんだなぁと分かるような気がします。

 

そして森蘭丸は、かの有名な信長の小姓。ユニセックスで有名な織田信長。

 

 

黒金門。やっと防御機能らしいものが見えました。

黒金門を越えてすぐの場所にある長谷川秀一邸跡には織田家4代の墓があります。4代と言っても織田信雄・高長・長頼・信武の4人です。

 

発掘調査で見つかった仏足石。やっぱりお城の中にお寺を作って保護するようなキャラじゃない気がするんですよね。

 

織田信長公本廟です。信長の本当のお墓なのかな。信長の一周忌に豊臣秀吉が盛大に葬儀をしたと言われる場所です。

 

さぁ、続いて天主跡です。これまでは通常「天守」と言われてましたが、自分を神として「天主」と呼ぶあたりが信長らしい。

もちろん天主跡には、天主の柱を支えた石跡が残るのみ。ここに有名な真赤で金ピカな洋風天主閣が建っていたんだ・・・・。今は石のみ残るんですね。

何か考えさせられるものがあります。

天主跡からは琵琶湖が良く見えます。今はあまり想像できませんが、琵琶湖の水運が財政的にも重要だったんでしょうね。信長の故郷の愛知と、京都の真ん中に位置する安土。短期間ではありますが、ここが日本の最高峰だったんですね。

 

さぁ、安土の山を下山します。途中に總見寺の三重塔があります。今は家康公邸宅跡地に仮本堂がありますが、その昔はココに位置していたらしい。1854年に火災で本堂は喪失しましたが、三重塔と楼門だけが残ったらしい。

なぜ、安土城にお寺があるのか。いろんな解釈があるんだそうです。これまでもたくさんの仏教徒と武力衝突をしてきたため、その融和のために寺院を作ったとか・・・。他にも、天主から見下ろせる場所に寺院、三重塔を作ることで、自分自身を仏よりも上と見せつけるためだったとか。

 

歴史好きが談義を始めたら終わることがなさそうな謎も残る安土城跡。

 

ぜひ、一瞬とは言え日本一、ひょっとすると世界一かもしれなかった安土城の跡。体験してください!